2017年7月7日

網膜剥離の裏側で 〜(1)目の異常


それはアメリカに入国した翌日に起きた。

朝食を済ませ、ラスベガス郊外のホテルの部屋で荷造りをしていた時、音もなく何かがプチンと小さく破裂した感覚とともに、数本の黒い針金のような線や無数の飛蚊症の黒い点のようなものが右目全体に広がり、何度まばたきしても消えない。

何かが起こった、何かが変だ。そう思いながらも、チェックアウトの時間が迫っており、これからアリゾナへ移動しようとしていたので、まずはそれが先だった。

荷物をまとめながら、私の思考がうごめいた。
「旅がこれから始まろうとしている時に、困る。これは何?行く手に何かが待っているとでもいうの?」

2012年に日本へ戻ってから、私は毎年2回アメリカを訪れる。毎回入国地も滞在先での行動のパターンも決まっていたが、今回はあらゆる点で異例ずくめだった ー いつもと違う場所から入国する。夫の家族の引っ越し先であるノースカロライナの地を初めて訪れる。他には特に用事もないのに、滞在が3週間といつもより長い。旅がいきなり強烈な場所から始まる。

この「強烈な場所」というのが、アリゾナだった。

それもアリゾナは、私が行きたいと思った北カリフォルニアの複数の場所が天気予報によるとどこも悪天候のため、計画が白紙に戻り、その後行き先が決まらない日々が続いたある日、「いっそ暖かくて雨のないアリゾナへ行こうか」という夫の突拍子もないアイデアで決まったのだった。

サンフランシスコから入国してその日のうちにラスベガスへ飛び、ラスベガスでレンタカーを借りて、そこから5日間かけてセドナ、モニュメントバレー、グランドキャニオンを巡る。

グランドキャニオンとセドナは、夫と結婚前に初めて一緒に訪れた場所であり、グランドキャニオンは、私達の結婚式のために来てくれた両親を連れてのハネムーンの場所でもあった。長い年月をかけて地球に刻まれた深いシワのようなこの場所は、古くから先住民の聖地とされている。

もうひとつの聖地モニュメントバレーも、私にとって思い出深い場所である。モニュメントバレーはグランドキャニオンからさらに内陸に入るため、日本からはかなりの距離がある。日本に戻ってしまったので、訪れるのはもはや難しいと私は諦めかけていたが、結婚25周年を迎えるという時に、不意にこのような形でこれらの場所を再訪するチャンスが巡ってきたのは祝福だと感じた。

その祝福の旅が始まろうとしていた矢先の目の異常。一体何が起こったのか?
すると、ここに来るまでに目撃した事柄が、不気味な数珠つなぎとなって頭に浮かんだ。

仙台の地下鉄で、眼球をモチーフにした広告に目が留まったこと ー どうしてこんな不気味な目なのだろうと思わせるデザインだった。サンフランシスコ行きの飛行機の中で、前の席にいた男性が急病になり苦しんでいたこと。最初の夜に泊まるホテルに到着するとパトカーと救急車が止まっており、チェックインをするために中に入ると、ホームレスらしき男性が酒の瓶を持ってロビーで倒れていたこと。

それらが予知的な現象だとは言わないが、今回の旅の裏に何かが潜んでいるように思えてならなかった。

セドナへ行く途中、仮眠を取るために夫がドラッグストアの駐車場に車を止め、私も隣の席でシートを倒して目を閉じていると、上の方から何かがこちらを見ている視線を感じた。その方向に振り向くと、少し離れた所の電柱にカラスがいた。それは巨大だったので、ワタリガラスだったかもしれない。そこでじっとしてこちらを見ている。カラスと目が合ったその瞬間、私の体に電流が走った。単なるカラスの存在を超えたものを感じたからだった。

やっぱり今回の旅は何か違う・・・。

目の中にあった針金のようなものはやがて消え、細かい黒い粒子のようなものだけが全体に広がり、視界は白っぽくぼやけていた。

セドナ、モニュメントバレー、グランドキャニオンを訪れた後、一旦サンフランシスコに戻り、今度は夫の家族を訪ねるため、東海岸へ飛ぶことになっていたが、アリゾナでの最後の一夜を過ごすためホテルにチェックインした後、私は急に目のことが気になった。

私の症状をインターネットで調べた夫は、網膜剥離かもしれない、その場合は眼科へ行った方が良いだろうと言った。おそらく、私は医学的な情報を得れば得るほど、不安になっただろう。ところが、ハートに意識をフォーカスすると、全く穏やかで全て大丈夫なのである。

何と馬鹿なことだろうと思われるかもしれないが、私はハートの感覚を優先することにした。もちろん、日本にいたらこの判断はしていなかっただろう。移動を続ける旅のスケジュール、アリゾナの砂漠の中の小さな町にいるという事実、それに高額な医療費のことを考えると、目のことは日本へ帰ってからにしようと思った。

夫に大丈夫だろうと告げると、私はハートに意識を戻した。すると、今起こっていることを別のレベルで知りたいという思いが沸き起こった。私にとってはそちらの方が大事なのだと、なぜかその時そう思った。

ふと、友人の顔が浮かんだ。彼女は私がピンチに陥った時、いつも助けてくれる頼もしい魂の友である。魂レベルでの深い話ができ、必要な時に大切なメッセージを伝えてくれる素晴らしい存在だ。

彼女にメッセージを送ると、時差があるにも関わらずすぐに返信があり、彼女は感じたことを教えてくれた。

医学的なことは別として、エネルギー的なもので見ると、黒い雲とともに砂嵐のようなものが覆い尽くして私が前進するのを猛烈な勢いで阻んで来ており、正面から進むのは難しいほどの勢いのイメージが見えるという。

これを聞いた時、興味深いと思った。砂嵐が起こるのは砂漠であるが、私がいる場所はまさに砂漠で、目の中を覆っているのはそれこそ砂粒のようなものだったからだ。砂嵐といえば、砂嵐の夢を何度か見たことがあり、いつも必ずその後に大きな変化がやってきた。

しかし、前に進めないほどとは何?私はこれから旅を続けるのに、何があるというのだろう?

彼女はさらに言った。宇宙に黒いろうと状の空間があり、その中に私が入っていき、すぐ外に出ることもできるのに、私はあえて奥まで入っていくことを選択するようだと。その空間を通る時、過去(世)に関わる癒しも絡んでおり、一番奥まで到達した時に光を見出すのだと。どうやら魂の成長のためのプロセスのようだねと言った。

「ええっ?これは楽しい旅じゃなかったの? 黒い雲、砂嵐、黒いろうと状の空間? そんなおどろおどろしいものは嫌だ!」と頭が叫び心臓がドキドキしたが、腹の感覚はどっしりしている。そこにフォーカスして静かに目を閉じていると腹に力が入ってきて、よし、何かはわからないが何があっても大丈夫、私は臆することなく進もうと決めた。




2017年7月6日

網膜剥離の裏側で 〜(2)このまま旅を続けなければ意味がない

翌日彼女から連絡があり、私が決心したからか、エネルギーが変わったとのことだった。そして、行く手を阻む黒く強大な竜巻雲のような雲は本来は存在しないもので、私を含む集合意識の想念で出来上がったもののようであり、怖れも不安もないと決めればなくなる、と伝えてくれた。

彼女は、独自の方法でマインドのブロックを解除し、潜在意識の深い領域から人々をサポートするというギフトの持ち主なのだが、私が快適な旅ができるようにとブロック解除を試みてくれた。

ブロックのイメージは、黒く強大な竜巻雲のような雲だったが、解除イメージを見てみると、私の後ろに何百、何千という人達が現れ、雲は私の動きに合わせるように後退して行ったという。私が一歩前に出ると後ろの人達も一歩前に出て、それに合わせて雲が一歩分だけ後ろに下がる感じだったという。

私はこのイメージに感動した。私と繋がっている人々の顔が次々と浮かんできて、有り難くて胸がいっぱいになった。実際、これまで夜寝る前に瞑想をしていると、私は長い水平ロープのようなエネルギーを感じることが何度かあり、自分を中心にして左右にたくさんの人々が並び、その繋がりのエネルギーロープを一緒に握っている感触がある。気づいていようといまいと、私はたくさんの人々や存在と常に繋がっている。そして、それは私だけでなく、誰もがそうなのだ。

彼女が見たイメージの中の黒い雲は、怖れという想念の象徴なのだろう。集合的な想念は巨大な竜巻雲にもなるが、一人の人が臆することなく自分の道を一歩前に進むとき、繋がった意識の領域で同時に私たち全員も一緒に一歩前進し、雲と一歩分だけ距離ができていく。私はこれをはっきりとイメージでき、そのイメージは私に力を与えてくれた。私を通して彼女が見たイメージは私にとって意味をなすもので、パワフルなメッセージだった。

しかし、不安というものは消えてもまた現れ、心に隙間があろうものなら一気に押し寄せてくる。もちろん、私は旅を中断して、一人で日本に帰国することも考えた。飛行機の空席をチェックすると一席だけ残っており、翌日東海岸へ発つことになっていたが、一旦東海岸へ行ってしまうと日本がますます遠くなるため、帰国するならこのタイミングだった。

ところが、ハートに意識を向けると「このまま旅を続けなければ意味がない」という言葉が返ってくる。それは、そのためにここに来ているのだという意味をも暗示している。ハートはとても穏やかで、揺らぐ私に教え諭す賢人のようだった。

さらに、私の頭の中に何度も何度も浮かんでくるものがあった。それは昨年読んだバイロン・ケイティ+スティーヴン・ミッチェル著の「タオを生きる — あるがままを受け入れる81の言葉」の第3番「人生を水のごとく流れるままに任せれば、あなたはその水になる」での光景であった。

その光景とは、フックス角膜内皮変性症という治療法のない症状により朝は目が見えなくなったケイティが、宿泊先のホテルで手探りで浴室まで行き、歯磨き粉と歯ブラシを手探りで見つけて歯磨きをし、蛇口の湯やシャワーカーテンの位置、シャンプーの量など、ひとつひとつ手で感触を確かめながらシャワーを浴びるというものだ。

ケイティはこう言う。「あらゆる苦しみはメンタルなもので、体や状況とは関係がない。痛みが強くても全く苦しまないということは可能です」と。そして、彼女は目が見えない人が何を知っているのか知りたいというエキサイティングな気持ちでいるとまで言っている。(その後、ケイティの夫が情報を得て、彼女は移植手術を受けて目が見えるようになった)。

バイロン・ケイティは、ストレスや怖れから解放する強力なツール「バイロン・ケイティ・ワーク」の創始者であるが、今目がかすんでいる私は、まるで彼女が言っていることを自分で確かめたいとでも思っているかのように、私の頭の中には「その考えがなければ、あなたはどうなるか?」という彼女の問いかけが何度も浮かんでくるのであった。

私の中から考えがなくなると、この右目を取り巻くあらゆる不安、怖れ、それに基づく「起こってもいないこと」が消える。すると後に残るのは、ただただ穏やかに呼吸している平和な状態だけなのである。

成るようになる。大河の流れのような、その時点では理解できないレベルのものがある。私はその流れに任せよう。

私はこの時ほど、マインドとハートの2つの領域の違いをはっきりと認識したことはない。黒い雲に覆われた怖れの領域と、何もない青空の領域。境界線の真上に浮かび上がって下を見ると、どちらを選ぶかで全く世界が異なることが一目瞭然である。

それは怖れを否定することではない。怖れがそこにあると認識することと、思考がそれに息を吹き込んで怖れを増大させるのとは違う。怖れるならば、その瞬間に、より大きな存在としての自己と繋がっていたロープが切れて、怖れはさらに怖れを呼び、奈落の底へと真っ逆さまに落ちていくが、その怖れを作り出している「考え」から意識的に離れ、ハートに戻ると、一瞬でストレスのない平和な場所へと移動する。

私はそのことを身をもって体験したかったのだろうか?

私は目を閉じて、ガイド霊たちにお願いした。「わかりました、私は旅を続けます。黒いろうと状の空間の奥まで行ってみます。その代わり私を助けてください、絶対に守ってくださいね」

すると、目には見えない3人の存在たちが「もちろん当たり前じゃないか、いつも私たちがいる、任せなさい」と言っているのがはっきりと伝わってきた。それも、この3人はものすごく乗り気で、前のめりになって私の顔にくっつきそうになっているので、私はおかしくなって笑ってしまった。

目の中に砂つぶがあり、白っぽくかすんだ状態である以外、私の体調はすこぶる良く、食欲が旺盛で何を食べても美味しい。途中原因不明の激しい下痢が数日続くことがあったが、浄化されていくかのように、体がどんどん軽く爽快になっていくのだった。








2017年7月5日

網膜剥離の裏側で 〜(3)目の中の宇宙

ノースカロライナにいる間、一旦目の中の砂つぶの数が減って視界がかなりクリアになり、このまま治るのかと思ったほどであった。しかし、シアトル空港に到着した途端、突然真っ黒なブロックが現れ、視界の半分近くがふさがれてしまった。

翌日は、視界の80%以上が黒で塗りつぶされてしまった。これはもうかなり深刻な状態だ。それでも、ハートは相変わらず穏やかなままである。

ハートの感覚の中にいることに慣れてしまうと、ストレスになる考えはあまり浮かんでこない。さらに、視力は低いが片方の目は見えるため、多少の不自由さを感じる程度で済む。いつもと違う感覚を使ったり、歩くペースが落ちて、より自分のペースと軸で行動できたり、見えないがゆえに恥ずかしさがなく、落ち着いて堂々としている自分がいたりする、という興味深い発見もある。

アリゾナで日本からメッセージをくれた友人に、目の状態が悪化して黒いブロックが現れ、見えなくなったことを伝えて助言を求めると、彼女には黒い激しい波が打ち寄せるイメージが見えた。次に、その黒い波の中から眼球が1つ飛び上がり、上空から下をキョロキョロ見ている光景になり、その時「魂の目で見なさい」という言葉が入って来たという。

私はまだ宿題を済ませていないことを知っていた。それはじっくりと黒い部分と向き合うことだった。

それをするのにシアトルはもってこいだった。シアトルは今回の旅行の最終滞在地であり、長年暮らした街であったため、落ち着けた。全ては完璧なのである。

民泊で借りていた家で静かに一人になれる時間があった。私はベッドに腰掛け、目の中の真っ黒な闇にフォーカスしてみた。

漆黒の闇・・・意外にもそこは宇宙空間のようだった。広大な静寂の中に金色の星々が浮かんでおり、北斗七星のような形をなしている。私の目の中に宇宙空間がある!私は夜空を見ているような気分になり、心が安らいだ。

翌日は春分で、古くからの友人のマッサージを受けることになった。この友人は素晴らしい感覚の持ち主で、マッサージの質が高くて深い。彼女との相性が良く、互いに引き合い響き合うため、私はいつも彼女のマッサージに、体も心も深い満足を得ることができた。彼女は私にマッサージをすると毎回必ず様々なイメージが浮かび、終わった後で私にフィードバックをくれるので、今回はどんな風だろうと興味もあった。

彼女の手が真っ先に私の腰に触れる。その手の動きを感じていると、私の閉じた目の前に、昨日見た宇宙空間が広がった。私の意識は、滑らかに滑る彼女の手から流れるエネルギーの波と、宇宙空間の中を漂っていた。それは、肉体への刺激を感じながらも、肉体を超えたものの只中にいるという不思議な感覚だった。

終わった後で彼女が言った。
「じゅんこさん、腰をやっている時、宇宙が見えた。星が浮かんでるの。じゅんこさんだけどじゅんこさんでないような、個人と全体との境界が薄くなっているような不思議な感じ。それで、その宇宙空間にブラックホールのような黒い空間があって、じゅんこさんはそこの中に入っているの。今はじっとしていて動かない感じ。闇の中にいるけれど、最後には光がある」

鳥肌が立った。彼女に見えたイメージは、日本の友人が説明してくれたイメージとほぼ同じだった。彼女の感覚は素晴らしい。

翌朝、私は洗面所の鏡に自分の顔を近づけ、右目をじっくりと見てみた。ぼんやりと力のないその目は、なんと母の目だった。母は幼い頃に右目が病気になり、それが原因で何年か前に完全に失明した。その目と私の目が重なると、私の顔全体に母のエネルギーが広がった。不気味なほど強烈に、そこに母がいた。

私は自分の中に母を見ているのだろうか?それとも母の中に自分を見ているのだろうか? ・・・・境界線が薄れて行く。この時、本能的に私は母の目を拒絶し、私はこれは受け取らないと決めた。こんなに強い拒絶反応は生まれて初めてだったかもしれない。

母の物の見方、考え方が、長い間そのまま子供の私の見方、考え方であった。母のエネルギーは巨大であり、大人になってからも母の感情や言葉に反応し、それに影響され続けてきた。幼い頃から母を守るのは自分だと決め込み、母の苦しみを和らげることができなければ罪悪感さえ感じてきた。

しかし、ここで私はもうきっぱりとそこから卒業するのだ、そういう自分を卒業するのだと決めた。母は母であり、私は私でいい。

すると今度は、母が私の子供であるかのような感覚が沸き起こった。それは今母が高齢になって立場が逆転したことと関係しているかもしれないが、それよりも、私の中に感じられたのは、漠然とした母性のようなものだった。私には子供はいないが、自分の中に最初からあった母性を感じ取っていた。

深い部分で何かが動いた。頭ではない部分での理解とともに、何かがほどけていき、ただそれで良いという感覚になった。

その感覚の中で自然に終止符が打たれ、ゼロへと戻っていく。

しばらくして、ベッドに戻って目の中の黒い闇にフォーカスしてみると、悲しみが浮かび上がった。それは私の個人的な悲しみではなく、少し離れたところにあるような漠然とした集合的な悲しみだった。その悲しみを感じていると、勝手にメロディーが口をついて出てきた。感じるままに歌っていると、音に合わせて右手が動き始め、手のひらで上へ上へとこの悲しみのエネルギーを上げていく動作になった。

ただ体が動くに任せていると、やがてそれは終わり、私の意識は再び目の中の闇へと戻っていった。

そこには先日見た宇宙空間があったが、あの時金色だった星々が今は赤や青、紫、ピンク、緑色などに変化しており、虚空を彩り美しく輝いている。私は驚いた。というのも、これらの星をこれまで何度か見たことがあるからである。

それは決まって深い夢の中でだった。夜空いっぱいに散りばめられた色とりどりの星が意志を持っているかのように活発に動き出し、いくつもの輪になってクルクル回転する。それは花火を見ているような光景で、星々の歓喜に満ちた乱舞だった。私は以前シアトルに住んでいた時に、この夢を何度か見た。

今、夢ではなく、再びこのシアトルの地で、今度はベッドに座っている私の目の中にその星たちがいた。動いてはいなかったが、息づくようにキラキラと輝いていた。少し離れた空間には銀河が生まれ出て、ごくゆっくりと回転し始めた。私は静寂にどっぷりと浸り、この目の中の宇宙空間を見つめていた。

するとその空間の奥の方から、うっすらと徐々に浮き上がってくるものがあった。淡い灰色で薄く繊細なものが次第に認識できる形となっていく。広大な宇宙空間に出現したそれは、巨大な淡い灰色の目だった。

その時、私の中から声がした。
「神の目・・・この神の目に私の目を重ね合わせる」

しばらくして、私が愛用しているセイクレッド・パス・カードの中のある一枚の絵が頭に浮かんだ。それは「グレートミステリー」のカードだった。


グレートミステリーとは、「大いなる神秘」という意味である。グレートミステリーは、北米先住民の人々にとって創造の源を表す言葉であり、日常の中で私はその神聖なる不可知の領域を最も大切にし、敬意を払っている。

カードには、宇宙の裂け目が別次元への扉となり、その向こうにある光が描かれている。裂けた網膜はさながら宇宙の割れ目のごとく、その裂け目の向こうから、その巨大な目は姿を現したのだろうか。

アリゾナにいた時「このまま旅を続けなければ意味がない」と言ったハートの声、そして「闇の中を奥まで行って、行き着いた先に光がある」と言った友人の言葉が思い出された。

私の中の宇宙。私の中の神秘。そこに現れた目の正体はわからない。いや、わかる必要はない。

ただ感覚的にはっきりとわかっていることは、あるプロセスがひとつ確実に終わったということである。それは頭での理解ではなく、腹で納得できる感覚だった。ひとつ宿題を終えたような安堵感に包まれると、あとはもうどうでもよくなった。

「はい、私は自分に与えられたことをやり、今終えました。後のことはそちらへバトンタッチ。後はよろしく」と私は心の中でガイド霊に投げかけると、彼らは満足して喜んでいる様子で「了解、全て私たちに任せなさい」という言葉とともに忙しく動き出したのが伝わってきた。









2017年7月4日

網膜剥離の裏側で 〜(4)ビジョンクエストだった

ガイド霊たちが言った通りで、この後、私は完全にコントロールを手放し、特に何もしなくても絶妙なタイミングで全てがアレンジされ、処理されて行くことになる。

翌日、タッチドローイングの創始者デボラと一緒に昼食をとることになっていたが、これも完璧なタイミングだった。フェリーターミナルで出迎えてくれたデボラに真っ先に目のことを伝えると、彼女はいてもたってもいられないほど気になったらしく、レストランで食事が運ばれてくるのを待っている間、眼科に連絡してくれた。

すると、眼科は1時間後にたまたま空きがあるという。アメリカでは完全予約制のため飛び込みで診てもらうのは難しいが、運良く空きがあるとは! 小さい島のこじんまりした所だったのがかえって良かったのかもしれない。昼食を食べながらデボラと話をしていると、そこは彼女がかかりつけのクリニックではなく、たまたまあるイベントで出会った女性の婚約者がその眼科医で、突然その女性の顔が浮かんだだけだとのことだった。


どこの眼科でもそうだと思うが、まず視力を測ろうとする。しかし、私の場合、目の前は真っ黒で、わずかに視界のヘリの方で助手が動いているのが見えるだけである。

「なぜこんなになるまで放っておいたの?」と、目の状態を調べた後、悲しそうに首を振りながら私に尋ねるドクターに、「旅行中で移動が多くて眼科に行き損ないました。あと数日で日本に帰るので、帰ってから病院へ行こうと思っていました」と私は説明した。

ドクターはとんでもないという顔をして言った。「おそらく網膜剥離だね。かなり剥がれているようだが、まだなんとか救いようがある。病院を紹介してあげよう。ところで、シアトルの前はどこにいたの?」

「ノースカロライナです」

するとドクターは身を乗り出して、「ノースカロライナのどこ?」と尋ねた。
「ローリーのあたりです」

「おお!私はここに来る前そこに20年くらいいて、診療所を持ってたんだ。家族がそこに住んでいて、娘の子供が生まれたので、来週会いに行くことになってるんだよ」

不思議な気持ちになった。広大な大陸に無数の街があるのに、よりにもよってローリーとは。

彼は「私が紹介するドクターはハーバード・メディカルスクールを卒業した優秀な人で、彼と昔一緒に仕事をしたんだ。腕もいいし勤勉で、安心して任せられる人だよ。私が今から彼に電話をしてあげよう」と言い、診察室を出て行った。

すぐに連絡がつき、翌日の手術のスケジュールにもう一人くらいならどうにか入れられるということで、即手術日が決まった。私はこのスピード展開に驚いた。デボラに会って3時間後には、私は翌日の手術の準備のため、シアトルに戻るフェリーの中にいた。後で知ったが、執刀医は毎日手術をしているわけではない。しかも、病院は網膜専門だったので、これも完璧だった。

日本へ帰るまで引き延ばしていたら、私は失明していたかもしれない。デボラのおかげで眼科に行け、眼科医のおかげで手術が決まり、執刀医のおかげで私の目は救われた。手術は痛みなど全くなく、網膜は綺麗にくっ付いた。

夫は私の手術に付き添い、彼自身も滞在を延長して私の術後の世話をしてくれた。たくさんの人が、私のために祈りとヒーリングのエネルギーを送ってくれた。術後は夫の友人夫婦のお宅でお世話になったが、ご夫婦ともに親身になって世話をしてくれ、5日間ずっとうつ伏せにしていないといけない私のために、奥さんはマッサージ師の友達からマッサージチェアまで借りてくれた。おかげでうつ伏せはそれほど苦痛ではなく、私は自分の家にいるように心地よく、安心してゆったりと過ごすことができた。

デボラは後日私にサウンドヒーリングをしてくれ、マッサージをしてくれた私の友人は、術後の経過の関係で滞在がさらに延びた私を迎え入れ、どれだけいても良いよと言ってくれた。

帰国日が大幅に変更になったが、航空会社は無料で変更してくれた。高額な医療費は、クレジットカードに付帯の海外旅行保険で全額補償されることになった。

ただ流れに任せると、次々と事が運んで行く。それも、祝福されているかのように心地よく運んで行く。「あの時約束しただろう?私たちは約束を果たす。信頼して委ねていいのだ」と、ガイド霊たちの声が聞こえてきた。

私は宇宙に愛され、たくさんの人々の愛に包まれ、有難くて胸がいっぱいになった。


日本に戻ってからも術後のケアは続いており、見え方はまだ以前のようではないが、毎日が楽しい。

朝起きると、その日やりたいことが衝動となって浮かぶ。それに従って過ごす時間は充実している。創作に集中する日。ジムで思い切り体を動かす日。自然の中でぼんやりとする日、など。

掃除が楽しい。アイロンがけが楽しい。買い物が楽しい。料理が楽しい。食べることが楽しい。片付ける、処分する、捨てる。これまでになく、家の中が整ってきている。

今まで使ったことのない食材や新しいレシピをトライする。寝る方向を変えた。作業机を別の部屋へ移し、窓の障子を取っ払った。机に向かうと正面に見えるのは生命力あふれる緑。全開した窓からは心地よい風が吹き込み、鳥のさえずりが聞こえる。

何もしなくても、座っていても、立っていても、よろこびがふつふつと湧き起こる。地味な日常が、温かく豊かな色で彩られる。

頭の中にスペースができればできるほど、内なるアンテナの感度が高まり、微細な感覚がキャッチできる。すると、これまでは感じなかったことに対して、明確な違和感がやってくる。耳を傾けていると、うごめく思考の中に、自分の思い込みや相手の思い込みが見えてきたりする。私はこれは選択しない、あれは興味がないというのが、今までよりはっきりしてきた。

執着しない。無理に動かない。損得勘定をしない。問題視しない。敵視しない。
答えがよりシンプルになってきた。

内なる衝動が私の体を動かす時、元をたどるとその衝動は、私が自分の中に観た宇宙と繋がっている。何もない空間で息づく星々、ゆっくりと回転する銀河。それらは今この瞬間も、私の中にある。私は気づいていてもいなくても、まだ出会っていなくても、常にそして既に、たくさんの人々やスピリットと繋がっている。

生まれ出てゆっくりと回転する銀河のように、私は人々とスピリットとともによろこびの創造を織り成す者として生きることを選択する。

昨年、オジブエ族の長老メディスンマンが私に「2月にスピリットがあなたに触れるだろう。その時あなたはわかるだろう」と言ったことを思い出した。2月末に夫が「いっそ暖かくて雨のないアリゾナへ行こうか」と言った時、私の中で何かがピンと鳴り、心臓が高鳴ったのだった。スピリットは確かに私に触れたのだった。

目の中の真っ黒な闇は、天からのギフトだった。私にとって、網膜剥離は古い私を脱ぎ捨てて次へ進むための「ビジョンクエスト」だったのだろう。

宇宙の割れ目の向こうからあらゆるものを観ている目は、無限への扉へと私を誘う。

そして、成長のプロセスは、大小様々な終わりと始まりを繰り返しながら、さらに続いていくのである。   

<終わり>




今回のこの道のりを伴走し支え続けてくれた友人の伊藤真由美さん、サポートしてくれたすべての方々に感謝します。

2017年2月27日

竹富島で弾け出た子(1)


八重山諸島のひとつに「竹富島」という名の面積5㎢ほどの小さな島がある。

時は200611月。両親が沖縄10島巡りをするというので、私は帰省した際に旅行に便乗した。このツアーの島々は、私にとってどれも生まれて初めて訪れる場所だった。

石垣島からボートに乗って透明なマリンブルーの海を楽しむのもつかの間、わずか10分ほどで竹富島に到着する。

ボートから降りてこの小さな島の地面に足を付けた瞬間、私は圧倒されてアッと声をあげそうになった。島なのかそれを取り囲む空気なのかわからないが、細かく振動しているのだ。

ハチが飛んでいるようなブーンという音が、耳ではなく体全体で感じ取れる。その振動に包み込まれるや否や、強烈な懐かしさとともに涙がこみ上げた。その懐かしさは、今まで体験したことのない深い安堵感をもたらし、心も体も完全に緩み、私は自分という存在全体が溶けて広がっていくような感覚になった。

竹富島にいた時間は1時間ほどで短かかったが、この懐かしい感覚はあまりにも強烈だったため、私は絶対に再び竹富島を訪れたいと思った。それから1年半後、今度は夫とここで一泊することにした。


「今日は47日ですが、何の日だか知っていますか?」
宿泊者名簿に名前を書いている私に、旅館の女将さんが尋ねた。

「いいえ」

「とてもいい日に来ましたね。今日は旧暦のひな祭り、女の子どもの日ですよ。ここでは、旧暦のひな祭りの日に女の人は海に足をつけると良いと言われているので、是非海に入ってみてくださいね」

竹富島自体が私にとっては特別な場所だと思っていたので、到着した日がたまたま特別な日だったことにワクワクした。

夫と浜辺に行き、透明な水に足をくるぶしまで浸けてしばらく立っていると、向こうからフグのような形をした魚が私たちの足元までやってきて、尾びれを振りながら泳ぎ去った。

その夜、私は異様に興奮してなかなか寝付けなかった。寝ている間に何かが起こることを予感していたのだ。

昔からそうなのだが、私は山など波動が高い場所や特別な場所では、大抵不思議な体験をする。特に夜は・・・。

竹富島も例外ではなかった。

やっとなんとか眠りに入っても、浅い眠りだった。夢の中で、私は旅館の前の小道を二階の部屋から眺めていた。もちろん島は舗装などされていないので、道は全て土の道。すると、道の奥から何かがこちらに向かってやってくるのが見えた。

それは、全身が青色の人間の形をした神様の行列だった。先頭の人が旗のようなものを持ち、それに続く十数人がぞろぞろと歩いてくる。

黒澤明の「夢」という映画をご存知だろうか?黒澤監督自身が見た夢が元になった8話からなるものだが、その中の「日照り雨」とよく似た状況だった。

「日照り雨」は、幼い主人公が、ある日母親に「こんな日には狐の嫁入りがある。見たら怖いことになってしまう」と言われたが、誘われるように林へ行き、道の向こうからやってくる狐の嫁入りの行列を見てしまうという話。

「日照り雨」は日中だが、私の場合は午前3時である。行列が月明かりの小道の向こうからやってくる様子を部屋の隅から見下ろしていたら、突然「人間がこれを見てはいけない!」という声がした。その瞬間、行列の人たちがパッと顔を上げた。私はサッと体を引っ込めたが、完全に気づかれてしまったようだ。

「ああ、しまった!」
恐怖とともに、繋がっていたロープが切れて落ちていく感覚が襲ってきた。すると突然、真っ暗な空間でパーンと勢いよく白い玉が炸裂し、光の粒が飛び散った。

その中から、青いつなぎの半ズボンを履いた一人の男の子が現れた。

「あっ私だ!」

3歳くらいの男の子だが、この子は私だった。

光の中から弾け出た子は、もうこれ以上楽しいことはないとでも言うように、歌いながら踊り始めた。

「おもちゃのチャチャチャ、おもちゃのチャチャチャ! 
チャチャチャ おもちゃの チャッ! チャッ! チャッー!!

声を張り上げながら全身をくねらせ、両腕を振り回し、足を勢いよく上げて、今この瞬間を最高に楽しんでいる。きゃっきゃっと笑いながら、延々とおもちゃのチャチャチャをやっている。

この子の後ろには友達なのか、二人の女の子も一緒に踊っていた。

間もなく子どもたちが消えると、寝ている私の体がベッドから1メートルくらいの高さに持ち上がり、何かが左胸に触れてジュッと焼きを入れられるような音とビリビリ感電するような感覚があり、そこで目が覚めた。

こうして、私はのちに「チビじゅん」と呼ぶことになるワンダーチャイルドに、竹富島で旧暦のひな祭りの日に遭遇したのだった。

ただ、私はワンダーチャイルドとは何であるかは知らなかった。2年後にチビじゅんが再び現れるまでは。

<つづく>

2017年2月24日

竹富島で弾け出た子(2)

 
竹富島で弾け出た「チビじゅん」(エピソードは http://junkokurata.blogspot.jp/2017/02/blog-post_24.html に)と再会したのは、2年後のことであった。あれから私の人生は速いスピードで展開した。強力な導きがあり、シアトルから一時帰国して、日本でカウンセラー/セラピスト養成講座を受講することになった。

この講座の合間に受講仲間と頻繁に自主トレーニングをして、セラピーの体験を深めていったが、チビじゅんが再び現れたのは、その自主トレーニングの時であった。

チビじゅんは、竹富島では炸裂した光の粒から出現して私を驚かせたが、自主トレーニングでは違う方法で私を驚かせた。

私はクライアントの役になり、セラピスト役に主訴を伝えて、ハコミセラピーの手法を使って反応を探るための言葉をかけてもらうことになった。セラピストが直感で言葉を選び、私は呼吸を整え目を閉じて、受け取る準備をした。

「じゅんちゃんは、優しい子だね」

この言葉に浮かび上がったのは、母に抱っこしてもらい、気持ちよさそうに目を細めてこちらを見ている幼い私だった。実際にその時の写真があるが、頬も腕もぷっくらしてマシュマロみたいに柔らかく、髪はまだ薄くて茶色い。1歳半くらいだったと思う。こちらを見ているこの子の優しい眼差しに、私は涙がこぼれた。

すると、「この子はギフトを持っている」という声が聞こえた。あらゆるものを包み込むことのできる優しさがギフトであるという。

「この子にしてあげたいことは?」とセラピストに聞かれたので、柔らかくてとても繊細そうなこの子を守ってあげたくて、両手で抱え込みたいと近づくと、この子はさっと身を引き、少し眉をひそめてよけるような素振りをした。

これは意外だった。私はこの子は癒しを求めている子どもだと勘違いしていた。こちらが守ってあげるというのはとんでもないことで、この子には優しさだけでなく強さが備わっているのである。

そのことをセラピストに報告している最中に、この子は芽から双葉が出るように成長して変化していった。そこに、竹富島で出会ったほとんど男の子のようなワンダーチャイルド「チビじゅん」がいた。

チビじゅんは3歳くらいで、まったく恐れがない。好奇心の塊で、じっとしていることができないタイプなのか、どこへでも一人でどんどん行ってしまう、すごい行動派。あっちに何がある、こっちに何があるという風に、指を指している。この子は「人生はとても単純なこと。好奇心とそれに伴う行動があって、そこに体験があるのみ」と私に伝えようとしているかのようだ。

そういえば、子供のとき、どうなるのかなあ?という好奇心のあまり、扇風機に足の指を突っ込んでみたり、ホチキスを手の親指にとめてみたり、空き地に積まれていた枕木に火をつけてみたりしたことがあったのを思い出した。

足の指は切れ、親指に2つ穴が開いて出血し、次第に勢いを増す火を近所の人に発見されて母にこっぴどく叱られたが、この好奇心と行動力はまさにチビじゅんの資質だ。それが賢明な行動かどうかは別として。

次に、セラピストがこの子に「話しかけてみる?」と提案したので、何か話そうとしたら、チビじゅんは四角く突き出した唇に人差し指を当てて「シッ」と言った。そして、私の手を引いて、どこかへ連れて行こうとする。

私はチビじゅんと空を飛んでいた。下には町並みが見えており、明かりが灯っているので夜のようだ。そのままどんどん上昇していくが、星空ではない。恐怖を誘う何もない暗い空間へと入っていく。

チビじゅんはまったく臆することがなく、まるで宇宙は自分の庭で、私に案内してあげてるんだよとでも言うように飛び回ると、洞窟のような空間を指して「これが人間の集合意識」だと伝えてきた。

そして私が将来関わる活動の方向性をほのめかすと、目の前に現れた灰色を帯びた紫色の大きな渦の中に、広がるように溶けて消えていった。

チビじゅんは言葉を使うのが苦手なのか、それともあえて使いたくないのか、しきりに私に指で指し示していた。

「好奇心を持って、臆することなく自分の足で動いてみること」

それが、チビじゅんが、あれやこれやと考えて慎重になるあまりに動けなくなってしまっている大人の私に、思い出して欲しかったことのようだ。

チビじゅんは私の中にいて、時々内側から私に蹴りを入れる。その蹴りとは、内なる衝動なのである。

受講していた講座の最中に、突然この蹴りが入ったことがある。

受講者の一人が抱えている生きづらさの問題に数人が寄り添っていたのだが、本人は生きている価値がない、自分は息をするのも申し訳ない存在だという思いがあまりにも強く、体を折り曲げ床に伏せて固まってしまい、そこで行き詰まってしまった。

私も寄り添う側の一人としてそこにおり、何か優しい言葉をかけて気持ちを和らげてあげたい、どんな言葉をかけてあげればいいかな?と考えていたところ、私の中でチビじゅんが飛び跳ねた。

一緒にかがみこんで彼女の背中に手を当てていた私は突然勢いよく立ち上がり、部屋の真ん中に行き、大声で「おもちゃのチャチャチャ」を歌って踊り始めた。すぐに2〜3人が加わり、私たちは手をつないで輪になった。

「おもちゃのチャチャチャ、おもちゃのチャチャチャ
チャチャチャ おもちゃの チャッ! チャッ! チャッー!!

さらに何人かが加わって、声も動きもどんどん激しさを増していき、私たちはきゃっきゃっと笑いながら、狂ったように歌い踊り続けた。

「こんなことしてていいの?隣で深刻な状況になっているのに、これすごいひんしゅくじゃない?」と頭の中で声がするが、チビじゅんはお構いなし。私の手足は完全にチビじゅんに乗っ取られていた。

今ならわかる。チビじゅんは、今生きていることの驚異とこの瞬間にも創造できる喜びを体を使って示したかったのだ。深刻さや息をも止めてしまうような強固な考えに対して、ほら、こっちの方がリアルだよ、こんな簡単なことなんだよ。生きているんだよ、生きているから歌うんだよ、踊るんだよ、と。

この子は大人の私よりずっと賢くて頼もしい。この子の後ろには神様がいるのか?私が行動することを躊躇していると、言葉以外の方法で何度も何度も私に伝えてくる。

「おもちゃのチャチャチャだよぉ。臆することなかれ〜!」


2017年2月19日

初めてのハコミセラピーセッションで

私は心理療法なるものに全く興味がなかったし、それがどのようなものであるかも知らなかった。だがある時、知人がどうしても参加したいワークショップが日本であり、一緒に体験してみないかと誘ってきた。私がまだシアトルに住んでいた時のことである。


それがきっかけで、数ある心理療法の中で私はハコミセラピーに惹かれた。というよりも、「それがやってきた」という表現が正しいかもしれない。


ある日、パソコン画面に表示された「ハコミ」という字を見た瞬間に、目が釘付けになり心臓がドキドキした。「この感覚は何?そもそもハコミって何語?日本語っぽいけど」。

調べてみると、“Hakomi”とは、アメリカ先住民ホピ族の「あなたは何者であるか?」に匹敵する言葉であるということだった。それを知った瞬間ストンと腑に落ちた感覚があり、すぐさまシアトルでハコミのワークショップに参加し、その1ヶ月後にはハコミのトレーニングに申し込んでいた。

私は心理学のバックグラウンドはなく、ハコミのワークショップでも、見るもの聞くもの何もかもが新しくて面白く、好奇心いっぱいだった。マインドフルネスからの身体感覚にフォーカスするハコミは、私にとって強烈な体験や記憶をもたらすものであったが、中でも初回トレーニングでの体験は、忘れることができない。

その日の最後に講師がリードする30分ほどのミニ個人セッションをデモンストレーションとしてやることになり、なぜか私がクライアントとして選ばれた。

セラピスト(講師)と向かい合って座ると、特に主訴はないと思っていたところ、ちょうど日本に帰省する前で、実家の母のことが頭に浮かんだ。すると突然、ガタガタと体に震えが走り腰から力が抜けて、座っているのに宙に浮いた感覚になった。まさに「地に足がついていない」状態だった。

なぜそうなるのか皆目見当がつかないが、それをセラピストに伝えると、「マインドフルネス状態になってその感覚を感じていたら、何が起こるでしょうか?」と聞かれた。

呼吸を整えて震えを感じていると、内側からムラムラと怒りの感情が湧いてきた。「その感情を感じているときのあなたは何歳くらいですか?」

「5歳・・・」
そこに5歳の私がいた。友達と遊んでいた私は、ある夕方門限を過ぎて帰宅すると、玄関に鍵がかかっており、大きなショックを受けた。私は最愛の母がこの世から姿を消した、もう永遠に戻ってこないかもしれないと思い込み、恐怖のどん底に突き落とされた。それは、自分の存在そのものが消されるかのような恐怖だった。目の前が真っ暗になり、全身がざわざわと崩れていき、力が抜けていった。

私は泣きながら、おばさん(友達の母親)と一緒に近所を探したり、家の前に立ってしばらく待っていた。すると、おばさんは戸の隙間から明かりが漏れていることに気づき、玄関から声をかけると中から母が出てきた。

その時私は、強烈に「裏切られた」と感じ、燃え上がるような怒りと恨みを覚えた。その感情が今、ハコミセッションで再現されたのだった。

後で知ったが、母は門限を守らない私をしつけるためにやったとのこと。

しかし子供にはそんなことは通じない。愛する人に裏切られるという強烈な痛みと怒りしかなかった。

普段怒りを抑えてしまう私にとっては、この再現された古い感情はむしろ新鮮であり、堰を切ったように出てくる怒りのエネルギーを残らず放出したかった。

とその時、この怒りのエネルギーに対するセラピストの恐れがこちらに向かってヒュンと飛んできた。瞬間的な迷いまでもが伝わってきた。彼女が意識の上で後ろに引いて壁を作り、遮ったのがわかった。どうやら私はマインドフルネス状態になると、自分のことだけでなく、相手や周りのエネルギーも敏感に感じ取れてしまうようだ。

「その感情から少し離れたところに立って、そこからその感情を眺めていたら、次に何が起こるでしょうか?」

あれだけあった怒りの感情にはひとかけらの執着もなく、カクンとひとつ下に降りた感覚があった。怒りの下には単純な悲しみがあった。

「さあ、さらにその一歩奥へと行ってみたら、次は何が起こるでしょうか?」
そこは母の感情だった。私はここにいるけれど、感じているのは母のもの。それはSadness(悲しみ)ではなく、Sorrow(深い悲しみ)だった。今の母よりもずっと大きく揺るぎなく、年輪と深みを持った存在。それを魂と呼ぶのなら、その魂に刻み込まれた悲しみの想いには、圧倒的な深みと重みがあった。

そのことを伝えると、セラピストはさらにこう言った。「その悲しみからさらに降りていきましょう」

今度は、人類の悲しみが眼の前に広がった。人種を超えて地球規模で人々が共通に持つ悲しみや苦しみ、無力感。長い歴史の中で繰り返されてきたもの。何の違和感もなく、自分のものではない感情をこんな風に手に取るように観ることができるとは。

個人の感情から、母の感情、母の魂レベル、そして人類という集合レベルへと意識が拡大していき、私はそれを当たり前のように静観している。

人類の悲しみを感じていると、眼の前に暗い洞窟のような空間が現れた。集合的な負のエネルギーは、ただただ濃い灰色の世界。闇は動くこともなく、そこにあり続ける。私はしばらくこの洞窟を見つめていた。

すると闇の真ん中に小さな穴が開き、そこから光が漏れ出た。穴はスリット状になり、光は太くなって広がり、瞬く間に空間全体が光で満たされた。その光にはそれ自身の意志があり、希望に溢れていることが感じられた。そして、それが自然の流れであり、仕組みであるという確信のような、腑に落ちるような感覚が訪れた。

その感覚を感じると、今度はそこまで拡大された意識が元の場所に戻るかのように縮小しながらスーッと上昇し、再び母が現れた。

現れたというか、私の右の頬に母の左の頬がピッタリとくっ付いていた。母が微笑んでいる。まるで私がこれを体験したことを喜んでくれているかのようだった。

私は驚いた。死んだ人が眼の前に現れたことはあるが、生きている人がこんなにリアルにここにいて、喜びを伝えてくるなんて。今母は太平洋の向こう側の日本にいるのに、確かにここにきている。私は母の顔もエネルギーもはっきりと感じることができるのだ。

そのことをセラピストに伝えると、セッションの深さに感動した様子だったが、私は母の顔が自分にピッタリくっ付いていることが、少し気味悪かった。ここで私がこんなセッションをしていることを、どうして知ったのだろう?

母の意識はセッション中に私に寄り添いながら、私と共に意識の層を降りて行ったのだろうか?娘である私が、母の深い悲しみを体感することで理解を深めたことを喜んでいたのだろうか?母もあの闇から出ずる光を見たのだろうか?

初めてのハコミセッションは、完璧で美しいプロセスだった。私は私でありながらも、意識は全体と繋がっていることを体感した。ハコミとは、ホピ族の「あなたは何者であるか?」に匹敵する言葉であると言ったが、セッションはそこに触れる素晴らしい体験だった。